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第11号6ページ
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創立30周年に寄せて 人生まだまだ仮免許
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先日、小学校のクラス会があって、本当に久しぶりに懐かしい面々と会う機会があった。我が交野高校同窓会会長の松本克彦氏も同じ小学校出身だったので、その席で色々な思い出話をしていると、ぜひ同窓会の会報で今の話を書いてくれ、と言われた。 そんなに面白い話をした訳ではないが、考えてみると我々交野高校一期生は今年で45歳になる。人生の半分以上は生きてきたことになるので、ここらで一度自分を振り返ってみるのもいい機会かもしれないと思って引き受けた次第である。半生を振り返るなんて大袈裟なものじゃあなく、軽い気持ちで書いてみようと思うので、少しの間お付き合い願いたい。 ぼくの小中学校時代は、サッカー一色であった。毎日ボールを蹴って走りまわっていた。そのかたわら、音楽が好きでギターを始め、家に帰るとボロンボロンとギターの練習。一体勉強はいつすんねん!って親には毎日ガミガミ怒られながらの中学3年間もあっという間に過ぎ、めでたく?交野高校入学。 高校でも当然のようにサッカーをするつもりでいたのだが、これが親の猛反対にあって、「学校でサッカーばっかりやって家帰ってギターばっかり弾いて、オマエ一体いつ勉強するつもりや!!」と言う訳。文字通り泣いて頼んでも許してもらえずに、サッカー部入部は断念せざるを得なかった。しかし、その反動で持てる情熱を全てギターに注ぐ事になる。(子供にはいろんな事をさせておけばいいという事を親は後に嫌というほど思い知らされる事になる) それからは同級生の門川均とバンドを組み日々練習に励んだ。さて問題のバンド名だが、色々案が出た中、満場一致で「CHI-CHI-BAND」(当然チチバンドと読む)に決定!初デビューは高校2年の文化祭。レパートリーははっきり覚えていないが、当時大流行していた“風”の「22歳の別れ」なんかを演奏した。門川がボーカル、サイドギターでぼくがコーラス、リードギター担当である。門川のスリーフィンガ-ピッキングは正確にリズムを刻み、ぼくのリードギターもバッチリ決まった。 これに味をしめ、ますます練習に励み、翌3年の文化祭は満員の体育館でのライブ!このころは売れ線は卒業していて、憂歌団や上田正樹なんかのブルースを演った。ステージ衣装は一期生には忘れられないあの赤と黄色の体操着に下は柔道着!今思えば相当変な格好だが、当時は二人ともバッチリ決まっていると思っていた。 このライブを友人で放送部の長谷川雄一が録音してくれていて、昼休みの放送で流したのだが、その中の一曲に、とてもここでは書けないようなエロい歌があって、それが全枚に流れたのだからさあ大変!生活指導の先生が放送室まで猛然とダッシュしたのだが、時すでに遅し。まあ今となってはご愛敬である。 ちょっと勉強の事にも触れようか。1期生は概にのんびりしていたようで、あんまりガリ勉タイプはいなかったようだ。 2年の時だったか、物理の試験で「畳の上にコツプを落としても割れないのは何故か」という問題が出た。超文化系人間のぼくには分かるはずがないので正攻法は諦めて「一人前の畳職人になるには10余年の歳月が必要とされる。つらいつらい修行を経てようやく一人前になれるのである。その一流の職人が丹誠込めて一針一針縫った畳には愛が込められている。その愛が割れるはずのコップをしっかりと受け止めてくれるのである。まさに匠のなせる技である…。」というような事を書いたが、当時の担当教師の林先生はこの答案に花丸をつけてくれたのである。嬉しいじゃありませんか。 そんなぼくでも受験勉強はそれなリにしていた。とにかく大学に入ってギターを弾きたい、そのためには現役合格。動機は単純な方がいいようで、見事?龍谷大学法学部に合格。 当時のキャンパスには学園紛争の名残も無く、バブル夜明け前の、のほほ~んとした雰囲気が漂っていた。そんな中相変わらずバンド活動に精を出すのであった。 月日は流れて大学の4年の時に、楽器店で知り合ったバンドにギターで参加。このバンドはポップス系のオリジナル曲中心のバンドで、アマチュア参加のテレビやラジオ、学園祭やライブハウスにも出演するようになる。活動が本格化するにつれて目の前に近づいて来るのは卒業、就職という現実である。それで、これでだめなら就職する覚悟で、デモテープを作り、プロダクションやオーディションに送りまくった。その中でただ一つだけオーディションに引っかかり、あれよあれよといい間に決勝戦に進出し、なんと優勝してしまったのである。 即デビューかと思いきや、そんなに甘くはなく、すったもんだしたあげくにようやく翌年の昭和57年に上京。晴れて“ウインディー”というバンドで「こんな夜は」という曲でデビュー(ちょうどチェッカーズがデビューして売れ出した頃かな、古いね!)。 しかし、プロとしての活動は2年間で終わった。その間LP1枚とシングル2枚のレコードを出し、俳優Mさんの歌手デビューのアルバムに参加した。デビュー曲の「こんな夜は」は「ひょっとしたらひょっとするかも‥・」ってオリコンにも載ったが、ひょっとしなかった。レコードも全然売れなかった。買ってくれた人を追跡調査すると、ほとんどバンドの家族、友達関係になるだろう。買ってくれた人、遅ればせながらありがとうございます。 バンド生活は超貧乏だったけど(給料5万円)苦しいとは思わなかった。むしろ貧乏を楽しんでいた。粗大ゴミから使えそうな物を拾ってきたり、酒屋の裏から一升瓶を拝借してきて飲んでみたら業務用アルコールだったこともあった(それでも飲んだけど‥)。 高校時代の友達にも色々世話になった。 俳優のMさんがNHKの連続ドラマの主演に決定し、その番組の主題歌にぼくらの歌が採用された。番組冒頭の字幕で作詞者としてぼくの名前が出るので、今は亡き祖母が喜んでくれた。「NHKに名前が出たら大したもんじや‥」って。大したことなかったけどね、おばあちゃん。 昭和59年にバンドは解散。メンバーはそれぞれ違う道に進むことになった。業界に残る者、就職する者。ぼくは大阪に帰り、詫びを入れ、父の司法書士事務所を手伝うことになる。まさに180度転換である。この仕事をするという事は司法書士の資格を取らなければいけない。しかし法学部出身とはいえ、長い間勉強から遠ざかっていたし、時はバブルを迎えようとしていて仕事は忙しいし、まだまだ要領が分からない事だらけ。勉強時間などとれるはずもなく毎日がストレスの塊であった。そんな中、翌昭和60年に結婚し(相手は交野高校の同級生、何という交際範囲の狭さか!)しばらくして子供もできた。 30歳までには資格を取れたらって思っていたけど、そんなに甘いものじゃあなくて、平成5年、35歳でようやく司法書士試験に合格する。 そうして現在に至っている訳であるが、こうして振り返ってみると直接的なり間接的なり誰かの世話になって生きてきた事を痛感する。 現在、仕事の方は不景気や仕事関係の法改正が相次ぎ大変な中、新たな分野の成年後見制度に取り組み、日々悩みながらなんとかやっています。人生まだまだ仮免許です。
先日、一人娘が「私、歌手になりたい!」だって‥
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