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楽しかった交野高校の私
社会科 加藤 昂(平成20年退職)
西暦2000年の4月、私の交野高校での生活が始まった。教員生活残すこと8年で転任となったので、おそらく最後の学校になるだろうという予感の中でのスタートだった。最初に授業を担当したのは3年生になった25期生、周囲のどこにでも緑が広がりどの窓からもそして渡り廊下からも山並みが見晴らせる環境は、私の気持ちを和めた。
まず放課後や休日にも学校のあちこちから響く生徒たちの声に、交野高校生たちの学校生活への前向きな姿勢を感じた。授業でも素直で反応があり、5月の遠足で付き添った25期生3年クラスの生徒たちも人なつっこくて、すぐに交野高校に馴染むことができた。テスト前や放課後に、暗くなった学校の窓の多くに照明が洩れ、クラスメイトたちと共同勉強に取り組む生徒たちの姿を見てますます「いい学校に着任したな」という感を強くした。
着任2年目からは、早く担任を持ちたいという意に反して28期生の学年主任を担当することになった。校内の人事構成では学年主任は担任を兼務できないシステムになっている。それならと、欲張って8クラス320名の「担任」をしたらいいんだという勝手な自己了解をし、担任の先生たちの仕事のうち生徒の出処進退に関わることは必ず一緒にやることにした。担任の先生たちには出しゃばりの学年主任と思われていたに違いない。担任として接することのできない生徒たちとの接点を作りたくて、必要以上(!)に学年集会を設定して長い話をしたのもそんな気持ちのなせる業とご寛怨ください。
そして今思っても28期生は前向きで反応のよい生徒集団だった。生徒は先生たちを信頼していたし、先生たちも生徒を信頼していた。
わけても2年生の2月に実施された修学旅行の磐梯猪苗代のスキー宿で、今まで観たどんな文化祭をも超えた全体レクをやってのけ(ただし修学旅行の出発直前の学年末考査の時にクラスのレク練習を盛大にやらかして、テスト勉強はどうなっているんだと心配させたが)、その勢いで、3年生では全クラスがステージ部門(演劇)にノミネートしたノリの良い学年でもあったことだ。
受験準備もある中で、夏休みから準備と練習に付き合わされた担任の先生たちも大変だったが、3年生の文化祭は全クラス演劇という伝統を作り上げて毎年多くの観客を動員することになった先達は28期生だった。
また、高校の制度改革の渦中を泰然と通り過ぎていったのも28期生だった。なぜなら、1年生の時は学校5.5日制(土曜日は隔週休み)に移行し、2年になると学校完全5日制(土曜日は完全に休み)、そして3年では今や交野高校の特徴になった45分×7限制への移行と授業形態が毎年変更される中でも、高校生活3ヶ年を素直にその変化に耐え抜いて(?)彼らは卒業していったのだ。
そんな生徒たちとの交流の中から、卒業直前の学年集会では「君たちを手放したくないから卒業させたくない」とわけのわからないこと生徒たちの前で言ったことを覚えている。とにかく教師歴も長い中で、交野高校で28期生というあんなに素晴らしい生徒集団と接することができたことは教師冥利に尽きると言ってよい。
また、その着任2年目からサッカー部の主顧問を引き受けることになったことも、交野高校での私の宿命だったのか。
着任時にクラブ顧問の希望調整を聞かれた時に、前任校で副顧問(といつても熱心な指導者顧問がいたので合宿に付き添う程度だった)をやっていたのでとりあえずサッカー部希望とした。もちろん熱心な主顧問(光永先生)がおられることを知っていたからである。
ところがである。翌年その主顧問が転勤となり、取り残された私に主顧問の座が回ってきたのである。これには正直言って自信がなかった。なにしろサッカーの選手経験はないしルールの知識もおぼつかない。しかしサッカー部がありサッカーをするために交野高校に入学した生徒たちがいる。ここは「義を見てせざるは勇無きなり」である。いずれは指導できる先生が転任してくるまでの期間、中継ぎとして土日をつぶして面倒だけみてやろうと心に定め、サッカー指導経験のある先生が転任してくるのを待つことにした。が、それが定年退職までの7年間にわたるサッカー部主顧問となることになった宿命の始まりでもあった。
だからサッカー部には「指導はできないが面倒だけはみてやる」と宣言して選手登録や公式戦の運営、練習試合をセットすることを中心に顧問稼業に邁進することになった。それでもそのうちに、サッカー部員が一生懸命に取り組んでいる様子を見ながら「可愛い奴らだ」と感情移入。高体連サッカー部のハンドブックで手当たり次第に「試合を組んでくれませんか、ついでにレフリーもお願いします」と我が儘な申し出を続ける中で、他校の顧問の先生たちとも交友関係が広がり、顧問稼業もまんざら楽しくないわけでもないという複雑な心境になっていった。
やがて指導できる顧問がいないということでOBたちがよく顔を見せてくれるようになり、以後7年間にわたってコーチ役を買って出てくれることになったOB(25期生の斉藤久允くん)との長い付き合いも始まった。
だが、雨でも夏の暑さの中でも雪でも真冬の寒さの中でも試合をする高校サッカー(サッカーにオフシーズンはない)の過酷さ、土日も祝日も夏休み冬休みも付添う顧問稼業の過酷さに、7年間のうちには正直言って気持ちがめげそうになることもあった。しかし顧問がいなくてはチーム登録選手登録はできず、練習試合も組めないという現実から逃げるわけにはいかない。懸命にサッカーの上達にいそしむ部員たちを見て、練習試合を楽しむ部員たちを見て、そして公式戦に敗れて号泣する部員たちを見て顧問魂を鼓舞されながらの7年間だった。
それもこれも今となつては楽しい記憶となり、7年間に巡り会ったサッカー部OBたちとの交流は私の財産ともなった。そして、私の退職と同時に交野高校に着任された前田先生(北河内屈指のサッカー指導者です)に、どこに声をかけても喜んで練習試合を組んでもらえる立派なクラブとして引き継ぐことができたのは私の誇りでもある。
さて、学年主任を終えた年の進路指導部での奨学金担当も大変だった(この年から日本育英会は行政改革の一環で独立行政法人日本学生支援機構に改変され、同時にすべての業務が私の苦手とするインターネット化された)が、翌年に文化教養部長に選任されていた先生(社会科の池田先生)の急な人事異動で、その職を急遽務めることになり私の教員生活最後の3年間はまたしても担任を受け持つ機会から見放されることになった。
文化教養部は学校内では入学式や卒業式などの儀式や文化行事そして図書館の管理を担当している。図書館ではちょうど3年前に司書の先生の異動(柚木先生から山本先生へ)があり、図書館運営の大改革(学校に来る機会があれば一度は図書館にも寄ってみてください)を経験することにもなった。
生徒たちとの接点が多い担任が教師という仕事の面白い部分だし、いろいろな問題を抱えた生徒に対して「よっしゃぁ担任の出番や!」と向かうことが出来るのは教師という仕事の醍醐味だと思う。その点に、交野高校で一度も担任を持つ機会に恵まれなかった私の無念さがあるのだが、文化教養部長はPTAや同窓会(桜美会)も担当するので生徒ではなく「保護者やOBの担任」をしようと割り切ることにした。
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